夏休みの宿題 (1998年8月)
早いもので、8月もアップしているこの31日で終わり。一体今年の夏はあったのか。甲子園で松坂大輔が快投した以外は、夏らしいスカッとした出来事など全然なかったって感じだし、天候にしたってそう。物凄く暑かったと思えばいきなりの雨にたたられ朝は冷え冷え等々。まあ、夏ってのは終わるものなんだ毎年。子供達は、夏休みの宿題の追い込みというプレッシャーと戦わねばならなくなるんだ。27日の朝、木佐とキクマが夏休みでなっちゃんとさおさおが各々代役を務めた「めざましテレビ」の「えーっ知らないの」コーナーは恒例のインタビュー企画。子供達にとって一番てこずる宿題は、予想通り「感想文」であった。昨今の学校でも、課題となる本を与えてその感想を書けという宿題を出すのだろうか。読書感想文を書くことによって、豊かな文才を身につけるっていうコンセプトは否定できないけど、いつまでもそれでいいのかと思う。たとえばさぁ、この夏大ヒットしたポケモンの映画の感想文書いてきて提出したっていいじゃないか。「いろのつかいかたがすてきでした」とか「このせいゆうのはなしかたはうまくなかった」とか率直なこといくらでも言えるじゃない? 書いてる本人も納得するまで煮詰める才を自然と身に付けるのではなかろうか。あるいは「おねえちゃんにぐれいのCDをきかされました。じゅんすいなたましいといういみのだいめいで、いみはわかりませんがとてもゆうきづけられるきがします」って書いてもいいじゃないか。こんな素直な感想文を大量に突きつけられて激怒し子供達にあたりまくる先生は最低である。そんな先生にトラウマを植え付けられると、やがて中学生になったとき、誰かに咎められても殴ることによってしか抵抗できなくなってしまうのだろう。たとえ相手が大和田信也であっても。「けっ、関係ねーじゃん」なんて。ちなみに自分は音楽の宿題で「何か名曲を聴いて感想文を書いてこい」と言われ、ついついサティのピアノ曲のLPを買ってしっかり感想を書いて提出したひねすぎ経験があります(中三の時)
そういえば日本でもB-BOYもどきな少年達の間で和製ラッパーがヒーローとしてもてはやされるようになってきたな。かつての「DA.YO.NE」のようなイメージ先導型でなく、しっかりと自分の主張を持ってライムを編み出す奴らが。しかしアメリカと日本とでは土壌が違い過ぎるってのを考えるとね。アメリカではろくに教育も受けられないキッズが、ストリートの空気に触発されながらライムするという業を磨き、たとえ成り上がっても決してその頃の自分の痛みにリスペクトを送ることを忘れていない。その分代償も致命的に大きいけど(ビギー、2パック.....R.I.P.) 日本のキッズは生活の貧困によって傷つくというよりは、自分を取り巻く環境の作為的矛盾によって傷つけられているって気がする。そしてそんな傷に打ち勝つ術を磨く暇もなく塾に行かされたり親や先生の言うままにされてしまうのだ。これは遺伝として何世代にも受け継がれてしまうのだから悲しい。おそらく日本のラッパーたちは、ネタDigなど細部までこだわるという点ではすごいけど、パーソナリティのでかさではまだまだだなって気がする。彼等が、昔キャロルやクールスで育ったのと同じ様な層に今支持されているのを見ると「それでいいのか」って言ってみたくもなる。まあね、今はバイクやギターよりスニーカーやスノボ、それに見せびらかされたLPジャケットってな時代だもの。これに殺傷能力のあるアイテムを加えることだけは絶対避けてもらいたいけど。
先週父の13回忌で久々に再会した姉の3人の子供も、上は高校生、下は中学生と最も感受性の強い年頃になった。彼女達から直接生々しい言葉を聞くことができなかったのを残念と思ってる。もっとも姉もここでは言えない様な事情でいろいろ大変そうなのだが、そんなことにめげず、決して破壊的行為に走るようなことはしてほしくないと祈っている。そんで帰ってきたら、我が家の向かいに住んでる高一の娘が、おそらく塾帰りなのだろうか、うちのベランダのすぐそばで携帯で話していた。恐らく中学時代の先輩の男の子らしい人と話していたようだが、きっと悩みが多い年頃なんだろう。しかし夜中の12時も過ぎているというのに....やがて隣の窓が開き、娘に向かって怒鳴る母親の声が聞こえて来た。これで何となく安堵感を感じた。
あああ、明日(9月1日)から通勤電車は女子学生の賑やかな話し声と制服に支配される。私は視覚的にちょっと潤うなとポーズを取りつつ、耳元を重装備にしてWEENを聴く。
ちなみに自分にとっての「夏の終わり.....」(by五味美保)の思い出というと小学6年生の夏休みの最後の4日間、親友のごんべと宿題をしながらも羽目をはずしてピンク・レディー等の曲を熱唱したことだ。その時のテープの一部はMDに編集され今もしっかり残っている。やっぱ無邪気な青春に勝るものはない。先の「めざまし」で男の子がインタビューを受けているときにむりやりカメラの前に割り込み鼻をほじってみせた女の子、お前いい度胸してるよ。見てたら名乗り上げてくれ(見てる訳ないか.....)
J-POP界のカバーと精子のただならぬ関係とは (1998年8月)
28日、スパイダースのCD再発を記念して、サエキけんぞう氏の恒例「コア・トーク」はまたまた黒沢進氏を迎えてGS特集。9月にPヴァインから「モッド・ガール・シリーズ」として中村晃子と朱里エイコのCDがリリースということで、歌姫・汀ようこも交えてガールポップの話題も盛り上がったのでした。目玉は今回のリイシュー作業の行程上発掘されたスパイダースの未発表曲2曲と弘田三枝子'67年の未発表曲の公開。特に後者はもう少し早く発掘されていたら、「筒美ウルトラ・ベスト・トラックス」に収録して少しでもコスト・パフォーマンスを高められたのにと思わせる筒美ポップの逸品。今後ミコの編集盤を組む際は絶対入れてほしいですね。その他にもあの三浦恭子の「女は生きるために泣く」の歌唱シーン(曲だけでもぶっとびものだが、映像を交えるとより濃くなって大変)や麻里エチコの「くたばれ野郎ども」(with渥美マリ!)など貴重な映像を多数公開。スパイダース再発の立役者中村俊夫氏などゲストの話もためになりました。トニー吉田氏もその後のDJパーティ(後日注: ギラギラナイトのこと)のために来ていて、是非とも話聴きたかったんだけど泣く泣く断念。そうそう、中村さんには例のアルバムの話、密かにしておきました。テイチクさん案外動くかも......
このイベントで最も興味深かった話題は、お客さんの一人が「昨今のバンドはGS時代と違ってあまりカバーをやりませんが、どう思われますか」と質問をした時だった。その答えとして、「GS時代は海外アーティストの興行も今ほど頻繁ではなかったので、GSやソロ歌手によるカバーで向こうの最先端の曲を"擬似体験"していた」という興味深い事実を黒沢さんが述べてらっしゃった。なるほどねえ。戦後、高度成長期とポップ・ミュージックの進歩がぴったり波長を合わせていたとはいえ、アメリカやヨーロッパのポップスはまだまだ遠い存在だったのだ。しかしそれらの音楽はかっこいいんだから、需要は高まる。対する供給を円滑にするために、漣健児氏や糸居五郎氏が大車輪の活躍を見せ始めるのが「カバー・ポップス」の時代。ビートルズが登場してGS革命が訪れると、一部のバンド・メンバーたちはこのクリエイティヴな自己主張を自分達でも行ってみようと自覚するものの、一方では芸能界の頑固さがそれを束縛していた。そのためGS時代もカバー曲がアルバムの大半を支配するという状況は続いたのだった。(当時はLPなんてまだまだ高額商品の一種だった) 結果としてオリジナルを越える名ヴァージョンから信じられないほど歪曲されたカバーまであらゆるタイプがレコードに刻まれたのだ。また「他の奴らに負けない気合いの入ったネタ探し」ってな自尊心を持ったバンド達は、ウェスタン・カーニバルのステージでエレクトリック・プルーンズやシーズの曲を演ったのだ。これは今となっては競って独自のグルーヴをdigするクラブDJに一脈通じていると思うのだが。
GSが終ってアイドル・ポップスの時代になっても、アルバムはシングル曲以外は他のアイドルの持ち歌のとか昔のヒット曲のカバーで埋めるという状況が大半で、より自由度を増したロックとフォークの世界の外では、芸能界体質ってものは何ら変ってなかったのだ。今ではロックもポップスもアルバムでいい加減なことをするという風潮は殆どなくなり、その分無節操さが薄れて面白くない。カバー曲でアルバムを埋めるという風潮にピリオドを打ち、アイドルの世界にもある種のアーティスティックな主張を重要視し始めたのは、他ならない山口百恵である。そもそも彼女の宇崎竜童作品は芸能界体質から脱却した側面を見せる兆候だったといえるが、同様の方法論をアルバム全体に適用し、さらにさだまさし、谷村新司といったより非芸能界的な人の作品をシングルで歌いそれを軸にアルバムを構成する。ここまで来ると、他のアイドルの曲なんかに用はない。いわば日本におけるコンセプト・アルバムの夜明けである。この頃、キャンディーズの解散で一但アイドル・ポップは「死んだ」とされているが、その間に百恵の方法論は次世代のアイドルを育むためのお手本として研究され、次世代の作詞作曲家に適用されていく。そして80年、松田聖子の登場で旧芸能界体質は終焉に向かう。当時のFM誌で聖子は「ニューミュージックの新人」とまで紹介されていたのだが、それも仕方ないか。考えればこれらは全て、酒井政利という人物の戦略なのである。よって今のJ-POPの父は誰かという質問の答えには、筒美氏や阿久氏以上に彼の名前の方がふさわしいと思うのだ。
ちょっとわき道にそれたけど、以上の様な事情がカバーが減少した最大の原因ではないかと思っている。それはサエキさんの最新アルバムの中で嘆かれている、「日本人青年男子の精子の数の減少」のカーブと平行線を辿ってるのかもしれないな。今のバンドにしたって、スマパンやグリーン・デイをそのまま演るよりもそれ風のオリジナルを演るほうがずっとかっこいいと思っているだろうな当然。カバーされる側のレベルが落ちているとかいう問題ではないはずだけど、向こうのバンドは忍耐強く待っていると絶対きてくれる。呼び屋のパワーの増大か、向こうのアーティストの日本好き傾向エスカレートの賜物か、はてはロックにおけるモラリティが緩和したのか、いずれにせよこの辺は60年代と全然事情が違う。あとカラオケ・ブーム。人の曲を歌うって行為はカラオケみたいな道楽レベルならふさわしいけど、芸術的行為ではないって風潮があるのかもね。それは間違ってると思う。
海のむこうに耳を転じると、ベン・フォールズ・ファイヴがオアシスの「シャンペーン・スーパーノヴァ」を歌ってるし、サウンドガーデンの「ブラック・ホール・サン」はチボ・マットに、ニルヴァーナの「テリトリアル・ピッシングス」はM.O.D.にカバーされてる。あるいはムーグ・クックブック。日本でわけのわかんないインディ・ノイズ・バンドがGLAYをカバーなんてしてまっか? 事務所やファンが怖いのか? 畠山みどりが加川良の「教訓」を歌ったように、心を開いて他人の芸術を賛美(多少冒涜も可)せねば。すずめの涙程でも著作権使用量が入るんだからやられる側に怒る理由などない。でも、やっぱ無理か。無理だから、「記念樹」事件になっちゃうんだな。この件は来週またじっくりと。というわけで、絶滅した他のアイドルの曲カバー風潮を復活させられる逸材はそう、エンクミ、君しかいません。「夜もヒッパレ」でやり慣れてるし、アルバムでシングル曲の穴埋めに広末や知念の曲を歌ってどこが悪いのだ? 憎めない性格のエンクミだからこそできるはず。
キクマ事件〜アナドル時代終焉の予感 (1998年9月)
菊間アナの事故については、結論から言うとやはりCXの無理させすぎの結果だと言うしかないと思う。この週の「めざまし」は、菊間アナが夏休み明けでコーナーがリニューアルする最初の週ということで気合いが入っていたはずだ。しかし、折しも大雨とその影響による被害が相次いだため、8月31日と9月1日は大雨関係の速報を重点的に提供し、菊間アナのコーナーはお休みだった。そして雨もおとなしくなった2日、満を持しての再スタート。時間帯も、以前小島奈津子アナの「突然! 奈津子でございます」をやっていた7時25分へと戻った。
この小島アナのコーナーは、彼女がいろいろな場所に趣きいろいろな事を体験するという生ならではの醍醐味に溢れたもので、私をアナウンサー・フェチにするのに大いに貢献したコーナーでもあった。各地のパン屋さんを紹介する「わくわくパンの日」を目玉としていたこのコーナーが、スタジオ司会の八木・小島体制への変化をきっかけに「それ行けキクマ」に生まれ変ったのは去年4月。小島アナの食欲メイン(なっちゃんごめん)な進行に比べると、何事も体当りでこなす菊間アナの意気込みを生かしたコーナーになっていた。当初は各地の小学校が「ムカデ競争」でタイムを競うのが目玉で、そこでの菊間アナの元気の良い絶叫にも似た実況振りは、正にめざまし効果満点のものであった。
その菊間アナの体験レポートもいよいよ1シーズン半目に突入というその日、緊急時の避難に使う器具を体験するという9月2日。リアルタイムで見られないので、せめてどんな感じになるのかなぁとビデオを回しておいた。タイトル・コールも新しいものに変っていて、菊間アナはやる気充分といった感じである。しばらく器具の説明が続き、「いよいよ行きますよ、今日は気合い入ってますよ」と彼女の元気のいい声がした数秒後、信じられない事態が目を襲った。ばっちり大成功で元気な菊間アナの顔の代りに、スタジオの小島アナと大塚範一さんの深刻な顔がしばらく続き、やがて番組全体が重苦しい空気に包まれていった。
家に戻って夕刊でそのニュースを知ったので何ごとやらとあわててビデオを見るも、見返す気には到底なれず。この日の深夜日テレでやった番組が上から録画されてしまい、今では見る術もない。次の朝大塚さんと木佐彩子アナは、前の日に番組で起こった不慮の事故に関して視聴者に深々とお詫びをすると共に、菊間アナの「ご心配をおかけしました、元気です」というコメントを読みあげた。代役を立ててコーナーを続行するのも当然不可能となり、新しいタイトル・コールは一度限りとなった。ちなみに裏番組、日テレの「ジパングあさ6」でもそのニュースを取り上げていたが、菊間アナと生誕3日しか違わない魚住りえアナが、他人事ではないような深刻な表情でコメントを寄せていたのが印象的だった。もちろん局の上の方は「CX、やっちゃったか」と複雑ながら心の奥でははにかんでいたかもしれない(その後のワイドショーで「衝撃映像入手」という見出しでこれをとりあげたのはチェックしていないし、する気にもならなかった) 他の局はどうかわからないけど少なくとも日テレはそうだろう。
こうして菊間アナの事故を目にしてしまったその後、自分の脳裏を「もうこれで局アナを使い走りさせる時代は終わりだ」という絶望にも似た感情がどんよりと横切った。今まで散々このコラムで書いて来たとおり、「アナドル戦略」で頂点に立ったCXを日テレが徐々に追い上げてきて遂には追い越し、CXを意識した「アナウンサーのスター化」を日テレがやる必要はなくなった。しかしCXは「アナウンサーは局の顔」という自社戦略を維持し続け、様々な方面で女子アナを露出している。菊間アナのような「体験レポート」はまだ良い方である。社会のいろいろな側面を勉強させて、一人前のアナウンサーに育ってもらうためには、そういうのは絶対プラスになる。しかし一方では、アナウンサー・バンド結成とか、バラエティ番組でコメディアンにぐるぐる回されるとか、これでいいのかってのもあった。他局の人は、きっとこういうCXのやり方を見て「やりすぎ」と思っているに違いない。今回の菊間アナの事故も「やりすぎ」の結果だと思われているだろう。
自分としては菊間アナを責めることはできない。あの大林素子や宮島恵子といった名選手を育てた、名門高校バレーボール部監督の娘として生まれた彼女は、CX入りしたのも自らの芯の強さがものを言った結果である。数々の体験レポートだけではない。先のアナウンサー・バンドの時だって、彼女は必死にリード・ギターを練習し、性格そのものの音を出した。そのCD発売イベントで実物を拝見した時は、「さすが局アナ、生で聴く声はテレビを通したものよりずっと綺麗」と思ったが、局アナに対してそれ以上の感情は持ってはいけないと思う。だからこそ、彼女がビーチバレーに挑戦した時、殆ど水着に近いいでたちを見せてくれたことに「感動」したり、絶叫マシンを体験した時の叫び声を「格別だ」と言ったり、果ては遥か昔のニュース番組のリポートで猿に体のある部分を噛まれたこと(及び、そのアクシデントと「ボキャ天」でミスチル〜菊間アナの好きなグループである〜の歌を猿を登場させてボキャブったネタを結び付けたこと)を引き合いに出して彼女の頑丈な肉体を語ったりといったかつての自分の行動を今は反省しているし、それらを書いた「愚悩」やF.O.P.の書き込みも9月2日のうちに全て削除したのだ。やはり、局アナに対してそういう感情を抱くこと=すなわち局アナのアイドル化が、各TV局に局アナに対する「無理なこと」を強要しているのではないかという気がする。そう、責任はすべて局側にある。あの大神いずみアナの熱湯拒否事件も、日テレの脱アナドルに向けての狂言だとしたら、大神アナを責めることなんて絶対できないのだ。あの事件で逆にマスコミ(特に低俗週刊誌)のアナに対する扱いに火が付いてしまったが、誠に遺憾なことである。(日テレの角田久美子アナが今度ドラマに女優として出演という、中井美穂以来9年振りとなる快挙があるみたいだけど、彼女はCXの穴埋め要員として放出されるという噂がまことしやかに囁かれており、そういう人材なんだからしょうがないとだけ言っておこうかななんて思っていたら次の週、結婚という信じられないニュースが.....)
しかしこの菊間アナの事故は、アナドル時代の終焉を物語る出来事となると思う。では今後、TV局はどうすればいいのか。いっそ来年度の新人アナウンサー採用はなしにすればいいと思う。そしたら、アナウンサー志望の学生たちも思い知るはずだし、今年入社した新人アナ(ちなみに自分は、まだ一人も顔と名前と局名が一致しません。去年までは熱心に新人チェックしていたんだけど)もじっくりと勉強の場を持ち、ゆっくり一人前に育ってくれるのではなかろうか。もちろんフリーアナと言われる人達に関してはこの限りではない。今後、自分にとっての「めざましテレビ」の主役である角田華子さんのように、お天気を読みつつも寸劇まがいの演技までこなして番組を盛り上げるフリーのキャスターがもっと活躍してくれれば見る人も心配せずにすむはず。もちろん金銭的に大変なことなのは判っているけど、局アナがファッションに金をかけるよりはいいではないか。
そして、富永美樹アナと近藤サトアナをそれぞれ歌謡ロック・グループのドラマーと歌舞伎役者の妻として送り出すフジテレビには.....日テレより遥かにいい番組を作る技量を持っているのだから、いい人材を育てていつか逆襲にむけて目をむいてほしいものです。野球チームを買う必要はありません。その金でいい番組といいスタッフを育んでほしいです。最後に、菊間さん、コメントを出せる位なので致命的重傷とならなかったのは安心でしたが、ゆっくり回復して、局の顔になるべく戻ってきて下さい。
以上、自分なりにいろいろ書いて来ましたが、局アナがアイドルと呼ばれるなんてもってのほかというセオリーに反していい唯一の人は、当然菊間アナの3日前に生を受けたあの人であるのもしょうがない事実です。だってさあ、魚ちゃん......拒絶できますか! いくら勝っても負けても巨人−横浜戦の翌朝のジパングのスポーツ・コーナーはやだからって.....魚ちゃんは将来楠田枝里子とか麻木久仁子に成り得る人材だと思う。これからもがんばってね! 本来なら佐々木200セーブ達成とか、最近のネット界に影を落す欝な動き、そしてアップ寸前に伝えられた黒澤明監督の死など、今週はいろいろ書くべきことがあるはずなんですけど、ちょっと季節の移り変わりにダウン気味な丸芽、ここらへんで勘弁させてください.....。来週はH45全体が大変だし。
音楽における洗脳と癒しの間の「揺れ」とは (1998年9月)
最近、ここやF.O.P.で読売新聞番組欄に位置する読者からの意見紹介の場「放送塔」について言及する機会が増えてきてる。今週も物言いせずにはいられない意見が一つあった。最近、お茶漬け海苔のCMで音楽もナレーションも入れず、ひたすら食べる姿と音を流し続けるやつがよく流れており、同じ傾向のトマト・ジュースのCMもオンエアされ始めたが、それらに対して「生理的不快感を隠せない」という意見が投稿されていたのだ。(しかも同様6通とあった)
丸芽が最初にこのCMを見た時は、何て潔くアヴァンギャルドなCMなんだと、思わず感動したのである。途中電話の音がしても、構わず食べ続ける。電話にはり紙するというオチはちょっと余計だと思ったが、出演している男優の存在なんかはどうでもいいって程インパクトが強いのだ。何せ音楽がない、食べ続ける音しかしないというアティテュードは、最近のタイアップ至上主義J-POP界に対するきついあてつけとさえ思える。
そうなのだ。見ていて不快感を隠せなくなるCMというのは、その主体が商品なのかCMソングなのかはっきりしないほど、「CMソングを印象づける」ことに主体をおいたCMなのである。ましてやそのCMソングの内容が商品自体と全く関係ない内容のものであればなおさら。かつてのCMソングの王道といえば小林亜星氏の「イエイエ」とか「ワンサカ娘」とか、CMソングという独自のジャンル(歌謡曲とクロスオーバーすることはまずなかった)があって、その中で金字塔となるようなイメージを築き上げると同時に、コマーシャルされている商品のイメージをも強烈に印象づけるものだった。冴えたCM監督とコピーライター、そして作曲家の共同作業によって成り立っていた世界だったのだ。残念ながら、今この3者が一つのCMの中で共存しているって例は殆どない。
例えば、真っ青な缶で有名な薬品会社系清涼飲料水のCM一つとってみると.....6年前、このCMは織田哲郎の「いつまでも変わらぬ愛を」を使い、画面には一色紗英という名の美少女を起用していた。飲料水自体の売り上げはすでに断固たるものだったので、このCMによる効果は一色紗英のアイドルとしてのステイタスの確立と、CMソングの大ヒットへと結び付いただけといえる。これ以降、この飲料水のCMは、織田哲郎を要した音楽プロダクションの活躍の場及び新人美少女の登竜門と化して、商品自体はどうでもいいという傾向になりがち。だいたい、○カリ○○ットっていっても一般的イメージは青い缶とCMで流れたZARDの歌とか中山エミリの姿とかしかないはずでしょ。その味について具体的に説明しろって言われたら、みんな首をひねるだろうな。付け加えておくと、このCMはたまに前述したプロダクション(以下便宜上Bとする)以外の曲を使うことがあるが、その場合Bによる執拗なプレッシャーが加えられ、折角タイアップで売ろうとしている新人グループやレコード会社が抑え付けられてしまうらしいのだ。実際Lというグループがそれで潰れている。今このCMをやってるペパーランド・オレンジという非B系グループも今一つ盛り上がれない。出演している後藤理沙も然り。そんな厳しい世界なんだよ、CM界は。逆風の強い(といっても悪いのは製造会社自体ではなく、一部の心無い一般人だが)飲料水業界において、それを盛り上げるCMに出演している田中麗奈や加藤あいといった新進アイドル達には、めげずに頑張って欲しいと思うけど、CM制作者に同じ意見を言える立場ではない。
それでもテレビを見ていると、前述したお茶漬けのCMを初め、時々私をはっとさせるものに巡りあう事もある。最近では奇抜な振り(?)と共に商品名を連呼しつつ練り(!)歩くアイスクリームのCM。こういう連呼をされるといやが上にも癖になるし、出演している野村佑香に対しても好印象を抱き、彼女の出演番組をチェックに向かったりもするわけ。後は何のギミックもない清潔なCMソングと美少女を使って好印象のお茶系清涼飲料水のCM。最初の本上まなみが無伴奏で歌うヴァージョンが良すぎて、以降は下降線って感じだったが、今やってる「みき」(字忘れた)のヴァージョンは久々の素晴しさ。絵的にも音的にも。CM音楽的には、渡辺満里奈が出ている事務用品のCMで、流れている音はナレーションとソプラノ・リコーダーの独奏のみ。この何の飾りもない音世界が実に新鮮だった。かと思えば、CM制作者が感化されたのか、BGMがやたら前衛ノイズ・コラージュ系だったりモンドなやつも最近増えてきている。今朝見たマヨネーズのCMも音響系の不思議な音楽が延々と流れ、ナレーションが入ってなかった。(一瞬「このマヨネーズにはペ○○ィ○ム・プ○○ッ○が内臓されているのか?」と思わせる音も入っていたが) ただ、このコラージュ系CMの内一つで天気予報の音をコラージュしているものがあったが、いいのだろうか? 昔村井邦彦の「朝・昼・夜」が、曲中に天気予報が入っているので本物と紛らわしいという理由で放送禁止になったことがあったけど。
そういうわけで面白いCMも増えてきているけど、やっぱ相変わらず「music by なになに」と入れずにいられない、タイアップ・ソング主導形のCMも多い。最近ではガソリンのCMを利用して自分達のシークレット・ライヴを宣伝するGというグループのやつね。ライヴをエサにカード入会者を増やしたいという根拠はわかるけど、結局カード入会者の何千倍にも及ぶ人達がGのCDシングルを買うという結果になるわけよ。そのGのシングルのジャケットは、今後3週連続でリリースされる彼等の3枚のシングルを収納出来る特殊ジャケットになっていて、全てにタイアップが付くという......もう、こういうの勘弁してよって言いたい。お茶漬けのCMが嫌だって言ってるOLも彼等の曲をカラオケで歌うことはするんだろな。私にとって生理的にヤなCMは、こういう奴、あとB系の曲が流れるCM全てである。あと、「あなたをとろけさせる魅惑のなんとか」とか前説入れて、その「おまけのCM」として宣伝するお茶系清涼飲料水のCM、あれも「魅惑のなんとか」を作っている人にとっては相当不快なんだろうな。いくら藤原紀香が甘く迫ってもね。逆に商品イメージを全く無視したジーンズ・メーカーのCM(最近ではルシャス・ジャクソンを起用)の方が逆説的に潔い感じがしていいのだ。ま、あまり言い過ぎるのもなんだな、Racco-1000にCMの仕事が来なくなるよ(短い曲専門という立場上、多少.........................................................................................色気あり)
以上最近のCMに対して思う事を書いてみました。表題に「洗脳」とあるので、丸芽が例の事について書くと期待した方もいると思われますが....CM自体充分に「洗脳」の行為ですものね。ある特定の音楽が「洗脳」の効果を持つとしても、テレビのCMには遠く及ばないってわけよ。TOSHIについては特にCXの番組で徹底的に掘り下げているけど、自己啓発団体のカルト宗教的存在感を抜きにしても、自分の意思と違ったイメージで奉り上げられた男にとって、それを拭うのは大変なんだなあと痛感した。ただそれにHIDEの死を結び付けて語るのはちょっとなあって思ったけど。この件に関して早くYOSHIKIに出てきて欲しいってのは、Xファンだけの意見ではないはず。北野井子のプロデュースにばっかり燃えてないで、早く意見を聞かせてほしい。奇しくも「洗脳」によって関係を気まずいものにされたと言われている兄弟の話がもう一つあったけど、大人になればたとえ兄弟といえどもエゴが肥大して気まずい関係になるのは避けられないことではないか。かつて「洗脳」について歌ったキンクスのデイヴィス兄弟ひとつとってみても。CCRやダニー・ウィルソンみたいに兄弟亀裂でバンドが解散って例に至ってないのは偉いけどね。一方ではスパークスのメイル兄弟みたいに揃って我が道を歩み続けている関係もあるけど。やっぱ、どっちかが何かの面で傑出して一般に露出しすぎるってのがいけないのだろうか。若貴は絶対違うと思うけどね。それにしてもこのTOSHIの話題、日テレでは全く無視。CXこそ広告塔ではないかなんて逆風が吹き始め兼ねないっすよね。ただでさえキクマの事故があった後なのに。
さてTOSHIを「洗脳」したと言われている団体の作っている音楽は「癒し」の音楽だと言われていますが、この「癒し」とか「ヒーリング」とか言われる音楽効果にはちょっと疑問符なのも丸芽の持論です。最近はエレクトロニクスによりその効果を計算して作られた音楽に加え、古くからの伝統的音響に基づいて作られたこの種の音楽のCDがよく売れているみたいですが、一般の方は何からの「癒し」を期待してこういうCDを聴いているのか。問題はそれなんですよ。いくら癒されたって、いやな現実は絶対に戻ってくる訳ですから。一時的回避のためなら、もっと快楽を求めた方が右脳にいいってわけですよ。(それ故に例のやばい薬に手を伸ばすって行為は考えものだけど....)
私にとって、たとえ一時的であっても非常に有意義な「癒し」であると同時に快楽の世界をかいま見させてもくれる貴重な音楽を奏でてくれるその人が、篠原理華さんなんです。この愚悩のしめくくりとして、19日に行われた理華さんのサロン・コンサートのことについて書いて、ちょっと気分を和らげたいなと思います。会場となったのは、秩父市にある喫茶店「千茶古」の別館にある小さなスペース。同じ埼玉県内とはいえ、辿付くまでにちょっとした旅行気分を味わえた。こじんまりした感じがもたらす、普段聴く「音楽会」と違った感覚。ましてやリコーダーとチェンバロ。家庭的雰囲気ゆえの、よりなまめかしい響きにうってつけの楽器が主役である。そして何よりも生体験4回目となる理華さんの成長ぶりが楽しみだった。掴みはもちろんばっちり。演奏者と聴き手の間に距離が殆どない分、ダイレクトに心意気が伝わってくる。木造の小部屋だからこそ、柔らかい木管の響きと共鳴してまたとない素敵な音響を提供してくれる。その影響か、理華さんの演奏も今まで以上にいきいきしていた。去年のデビュー・リサイタルで聴いた曲も、その時を遥かに上回る印象。今回は珍しく真横で聴いていたので、彼女の流暢な指使いにばかり目が行ったけど、やっぱ惚れ惚れします。これほど色っぽい「恋のうぐいす」を聴いたのは初めてで、血の流れを浄化してくれる。家庭的な雰囲気のコンサートならではのおまけとして、理華さん自身のMCが聴けたこともうれしかった。楽曲と作曲家に関する解説はチェンバロの岡田龍之介氏にまかせ、彼女自身はリコーダーに関する説明をちょっとしたのみだったけど、あるのとないのとではやっぱり感じが違いますね。クラシック・コンサートを聴きにきましたってな聴衆からはあまり聞くことがない、一般市民も多数含まれていると思われる聴衆からの、一曲終わるごとに「おーっ」という感嘆のニュアンスを漂わせた声が拍手に混じって聞こえてくるのは、リコーダーの新たな魅力が充分に伝わったという証しかも。あの縦笛からここまで豊かな響きが出るとはって、回りのお客さんも口々に言ってたし。(息子のお嫁さんにという声もちらほら....) もう一つ今回の収穫は、「お国巡り」というテーマに叶ったものとして、日本人作曲による現代作品の演奏が聴けたことだろう。藤原豊氏による「村の生活組曲」は、バリバリの前衛風とも哀愁の北欧系現代曲とも異なったムードで、「バーント・ウィニー」期のザッパが手がけそうなチェンバロのメカニカルかつロマンチックなリズムに、美濃さんが書いても不思議ではない甘美なメロディーが絡み、現代の特殊奏法を使わずともリコーダーのコンテンポラリーな側面を誘き出したNiceな曲。きっと理華さんが演奏することを念頭において作られたのだろう。最高域の音を正確に出すため、笛の先端を膝の少し上で押さえるというアクションが不可欠で、理華さんは立って演奏していたのでその都度足を上げるんだけど、その仕草もキュートに決まってて曲の雰囲気にぴったりだった。2つの楽器の素朴な響きに、かすかに外から入り込む虫の音も絡み、森林の香りと共に最高の環境で行われた演奏会。機会さえあればまた行きたいですね。それではまた来週、今回はあえて書かなかったあっち方面で決定的な動きが起こることを期待して.......
P.S. このページは「広告塔」ではないので商品名は一切控えました(黒ぇオチ!)
私の体の中を、今、洗脳娘が走ってます。(1998年9月)
先週、読新放送塔に「生理的不快感」を訴える投書が来たお茶漬けのCMについて書いたが、案の定それに対する反論が今週水曜の朝刊に載った。いわく、「それを見るとお茶漬けが食べたくなってしまいます」。これも結構ごもっともな意見ですね。普通このコーナーに何かに対して批判的な投書がくるとすぐむきになって反論したがるのが男性アイドルを応援する若い女性であるのは確かで、この投書も出演している男性俳優(その名前を、残念ながら自分はチェックしていない。今度「CM NOW」を立ち読みする際はちゃんと男の子のページもチェックしよう)に対するファン心理が書かせたものなのかもしれない。まあ、来るべき反論の一つの例とでも言っておこう。「商品を宣伝しているのかCMソングを宣伝しているのか解らない最近のCM界にあっては清涼剤である」ってな、先週私が愚悩で書いたような反論が来るのを期待してたのに。それじゃ自分で書けって? こういう場所でこそこそやって、それを広告関係者にたまたま見られたりする方が自分にとっては快感なのさ。ましてや読新だもん。
それにしても一切余計な要素がない、潔すぎるコマーシャル。私がこの種のCMを見て魅せられる傾向を形作ったのは、他でもない約2年前に頻繁に放映されていた、某固形健康食品のCMである。もちろん本上まなみの無伴奏の歌も、エンクミが踊り狂うごはん食促進CMもよかったけど、このコマーシャルの持つ潔白さと視後の爽快感にかなうものはまずないと考えている。調子に乗って、たまたま2分ほど空いていたビデオの残り時間を、このCMを何回も繰り返して埋めたほどである。さらに、未だに我がMacのHDに音が残っている。ちなみに現在はマルチナ・ヒンギスが出演しているこのCMであるが、私が夢中になったヴァージョンは、いまさらそこで語られたセリフを引用する必要もない(とか言って表題で.....)だろう、それほど誰の目にも鮮烈であるはずだ。
「ぴーぽーぴーぽー」という無垢な少女の声とともに、やや暗めの証明に照らされた恥じらい溢れる顔としなやかな肢体が映し出される。その少女は、セリフを語りながら、ものの見事に右足を頭の高さまで上げてみせるのだ。再び「ぴーぽーぴーぽー」の声と共に、男性ナレーターの低い声が商品名を読み上げて終わる。
私は、この女の子の足が上がることだけに魅せられてこのCMを重宝したわけではないのだ。この少女の、何のためらいもない肉声が、いかなる音声にも邪魔されずこの商品の持つメリットを逆説的に語っている(体の中を救急車が走るという言い回しは、この商品で栄養を補給すべきだというポイントを見事に裏返して表現した名フレーズ)ことと、その声質に夢中になりまくったのだ。セリフの声が多少ふらつくとき、彼女の足の筋肉からちょっとしたノイズが派生する。この瞬間に人体の宇宙を感じるのだ。実を言うと、この「ぴーぽー」CMは、別の女の子を使った別セリフのヴァージョンも制作され、この企業がスポンサーとなった番組では2本続けて流されていた。しかし、別の女の子も同じ様に「ぴーぽー」言いながら足を上げているにも関わらず、全くそそらない。(一部週刊誌は別の女の子が着ている服がきわどいので熟視するようになどと書いていたが....) 「ぴーぽー」の旋法(?)が若干違うのと、声質の差もあるのか。いや、ルックス的にもあっちの方が絶対いい。
その「あっちのコ」の正体が解ったのは、96年11月4日、文化の日の振替休日のこと。大好きだった加納康子が出演していた「スーパーシティー中央」を珍しくリアルタイムで見られるというのでわくわくしてテレビ付けたら、その時間CXの「おはようナイスデイ」に例の女の子が出演していたのだ。そのコは高校生時代、新体操でインターハイを制したという経験を持っていた。どうりで足が上がるわけだ。そしてそのたまらない肉声の神秘も.....その、恥じらいが服を着て歩いているような、今時まずいない無垢な女の子の名前は、和田みゆき。その後2、3回バラエティ番組に出演して足上げ技を生で披露していたが、現在はどうしているのだろうか。ダンスの勉強をしていると語っていたが。スター街道をひた走るのは絶対似合わない。こんなふうに、記憶の片隅にささやかながら絶対消えない足跡を残してくれればいい、そんなコなのだ。私がCMで見て「こいついいなあ」と思う人は、いつもそんな感じである。ブレイクしちゃいけないのだ。だって、CMされるのはタレントじゃなくて商品なのだから。
つい最近も、リコーダーの多重奏を使ったポップでNiceなCM音楽を聴いて「これだっ」と思ったんだけど、決して好きではない食べ物を宣伝してるものだったのだ。CMを見て「これ食べたくなる」っていう思いは、やっぱ「洗脳」の賜物なんだろうなあ。もちろん私はみゆきちゃんに相当洗脳されたけど、自分の都合のいい方にだもの。だってバ○○スデ○トなんて未だ口にしたこともないよ。
最後に音楽メディアのCMでも、そのメディアに収録されている音楽を使わなかったり、工夫の多く斬新な映像を駆使したものがぼちぼち出始めていて、これはなかなかいい傾向だと思う。私が2、3年前、自分だったらこんなCM(30秒版)を作りたいなあと頭に描いたヴィジョンをここで引用して、今回の愚悩を締めさせていただきます。手前味噌ながら、アーティスト名は「Racco-1000」とさせて頂きます。(汗)
1.まずそのCMの対象となるCDのジャケットを手にとるお客さんの手のアップにはじまり、カウンターでお金を払う場面、CDショップを駆け足で出る場面を矢継早で映す。これで7秒経過。
2.買ってきたCDの封を無造作に破り、CDをプレーヤーにいれて、ボタンを押す。しかし音が出ない。首をひねる主人公の顔と床に置かれたCDジャケを、無音の状態で交互に映す。ここで15秒経過。
3.主人公がCDショップに再び駆けこみ、カウンターに向かって「あのぉ、これ音出ない、不良品なんですけど」と大声で怒鳴るシーンに切り替える。そのシーンのバックに、お店で流れているという設定でRacco-1000の曲を使うが、CMを見ている者は実質8秒しか聴くことができない。
4.このシーンをカットアウトして、目盛が0になっているアンプのボリュームを大写しにしながら、「Racco-1000ニューアルバム、出たよ」とアナウンスを入れる。(イメージはちびまる子ちゃんに出てる野口さん.....) 一応画面の下の方にも、この言葉をテロップとして入れておく。そして最後の1秒で、ボリュームに手が伸びて回されると同時にちょっと音楽が入るという強烈なオチ.......これでRacco-1000とは何者かといううっすらした関心が芽ばえること間違いなし!? 蛇足ながら「Now On Sale」ってのはヤだ。
勝利の美乳を口にする日はいよいよですね (1998年10月)
さてベイスターズを中心に回転した今週ですが、それ以外にも避けられない話題が結構あった。まず坂本龍一と矢野顕子の愛娘、「Sister M」として知られた坂本美雨が、本格的歌手デビューするという話。海の向こうではショーン・レノン、クリス・スティルス、エマ・タウンゼント、ルーファス・ウェインライト、アダム・コーエンなど二世歌手ブームだが、とうとう日本にも飛び火したってわけか。個人的にこの「二世ブーム」についてはかなり複雑な気持ちで、理由はちゃんとあるんだけど(メールくれればその事について語ってもいいよ。某掲示板ではちょっと明らかにしたけど)、教授の娘となればきっとただものではない活動が期待出来るだろう。ただ、メディアに露出する際は目をつむるなり隠すという売り方は、度を越えすぎてなんだかなぁと。それよりも個人的に期待しているのは、12月にデビューする宇多田ヒカルという女の子である。このコのお母さんは他でもないあの藤圭子なのだ。以前娘とバンドを組んで活動していたという話を聴いたが、ついにベールを脱ぐのか。実は洋楽フィールドにおいてこのコは「キュービック・ユウ」として密かにデビューしてて、レニー・クラヴィッツの推薦文をCDに載せてもらっていたりするわけだけど、興味津々。何せ名ブルース・シンガーの娘ですから、ソウル歌わせるとうまいだろう。しかも15才。将来に期待したい。ヴァージンはドリカムじゃなくこっちをプッシュすべきじゃないかな。他にも尾藤桃子(イサオの娘)がデビューしたし、北野井子も新曲間近。辺見えみりや松たか子は持ち出すまでもないだろう。今後どんな二世歌手がデビューするのか、チェックするだけでも楽しみ。
そのヒカルちゃんの話題を教えてくれたのが今週の「週刊現代」だったが、その一方ではアナウンサーについてのいけすかない記事も書いてるもんな。いや、ここでもキクマの事故をきっかけに、もうアナ話はしないと誓ったんだけど、やっぱせずにはいられない。しょうがない性だ。その現代の記事に続き「FLASH」でも話題になったのが、今年日テレに入った新人、柴田倫世アナである。かなり屈辱的な表現になるのでここでは伏せ字にするが(それに対して文句がある方はどうぞ。公開しますから)、彼女の売りはなんと「○○」であると読者の期待を煽っているのだ。自分も「真のインテリジェンスは床上30cmにあり」なんて言った立場上でかいことは言えないと解っていつつ、その表現についてはちょっと憤りを隠しきれない。アナウンサーは局の顔ではあるべきだけど、○○を売りものにするような劣等な生物であってはいけないのだ。だいいち、その週刊誌の記事は「彼女を良く知る日テレの社員の話によると....」という書き出しで彼女の身体的魅力を語っているのだ。その事がアナウンス室の上の方にばれたら、即刻「その社員は減俸処分にせよ」と言い出すに違いない。日テレってそういうのを一番嫌うもの。だからこそ大神アナ熱湯拒否事件は自作自演だと思ってるんだけど。まあ、柴田アナにはそんな逆風を吹き飛ばすべく頑張って欲しいと思うけど。すでにズームイン朝!に出てるもう一人の新人アナを見てると、そのひたむきさに日テレが本来必要なものはこれだという心が秘められてるような気がして、飾りとしての女子アナ時代は終わったと痛感せずにいられないんだけどね。それより、現代の記事の中で、我らが魚住りえアナまで「○○アナ」と書かれているのにはなあ、そりゃないぜと大爆発。魚ちゃんにそんなレッテルが似合うわけないではありませんか。熱湯コマーシャルでのお飾りタレントとは程遠いのに。セクシーとかそういう女っぽさを超越したイノセンスこそ魚ちゃんの魅力だと思ってるし、局アナとしてもったいないと思ってる由縁なんだけど。それにしても、日テレは裏方も含めいい人材が多い。例の熱湯CMの時のADみたいな明らかな例外もいるけど、他局にいる、或いはいただめ人材(淫行事件を起こしたり、タレントとの婚約を一方的に破棄したり....)に比べると遥かにましだろう。日テレについてヤだと感じるのはただ一つ、巨人軍が常に付随しているということに尽きる。今朝も、遂に実現した毒物カレー事件容疑者逮捕の話題で各TV局は大わらわ(昨日優勝決定しなくてよかったよ全く)で、日テレも「所さんの目がテン!」を休止して特番を入れていたが、しっかりあの巨人コーナーだけはやってるんだもの。もう全く。でも、巨人優勝完全不可能となった今見てみると、結構面白いコーナーですよね(嫌味?) 志のぶちゃんの足元ばっか見てるわけじゃないからね......おっといけね。で、○○といえば、最近お気に入りのアイドル森ひろこも「○○アイドル」としてもてはやされているけど、彼女をそんな見方で語るなんて的外れと思う。こんな純真なコをね。ひろこの○○は純な顔と美味な脚線の間にあるものでしかない。(おっとすまない.......)
一方キクマ事故の余波が残るCXでは、富永美樹アナの結婚退職と、近藤サトアナの結婚退職準備という大きな動きがあり、そんな中中村江里子アナが「週刊文春」のグラビアに登場。魅力的な脚線美も含めた、普段は見せない表情を披露しつつ、本文記事で「女子アナについていけすかない記事を書くのはやめてほしい」と自分達の立場を訴え、なるべくこの種の露出も今後は避けると明言したのであった。江里りん、よくぞ言ってくれた。その鼻の高さは常にバッシングの対象になっているとはいえ、彼女達も一介のTV局社員なのだ。タレントのように好き勝手にいろいろ書かれたら不愉快だろう。いろいろ書くってのは、このページで今私が書いてるようなことも当然含まれるのだろうね。だからこそアナ話はもうしたくないって言ったんだけど。そんなこんなでコンビニのとなりの棚にあった低俗雑誌を覗いたら、中村アナが3年前にSMAPの草薙剛と「水泳対決」した際の水着姿のスチールが引用されていた。これだから、止まらないんだよな。大体CXの体質自体が良くない。水曜日に「全国局アナお勧めの温泉対決」みたいな番組やってたのでチェックしたら(局アナの入浴シーン期待してたわけではもちろんなく、もしかしたら去年末やっためざましスペシャルみたいに華ちゃんが「代役」として出演するかも....と思ってチェックしたのだ)、露木さんと山中アナが自ら名湯三昧楽しんでるんだもの。日テレじゃ絶対考えられない話だ。ただ富永アナの結婚祝いプレゼントを山中アナが贈ったシーンにはじーんときたけど。富永、大丈夫か。しゅう(シャ乱Qのビル・ワイマン?)はあんな奴だけど、めげずにまことを大事に操縦するんだぞ。
ま、CXに関してはいろいろあるけど、ベイスターズの優勝決定シーンを独占中継するという重要タスクがしっかり残されているぞ。去年のように「魔の月曜日」にならず、スタッフ(及び松ちゃん)は安心しただろう。佐藤藍子さん、TOKIOの国分君、しっかりスケジュール空けておくように。(後日注: たいした内容ではないが、この時期にヒッキーの事を書いていたというだけで、ここに再度晒すことにしました)
Soul is Deadと歌う人は現れるのか? (1998年12月)
先週エヘッで書いたように、Misia周辺の話をしようと思っていたんだけど、まだその気になれないでいる。きっかけはルルルルにも選んだマーヴィン・ゲイの「セクシャル・ヒーリング・セッションズ」を聴いた事なんだけど、正直言ってこの「セクシャル・ヒーリング」という楽曲こそ、極端に言えばカーティス・メイフィールドとテディ・ライリーの、アレサ・フランクリンとローリン・ヒルの、もっと端的に言えば和田アキ子とMisiaの、各々のソウルな分岐点にどんっと居座る存在感を湛えた重要な曲である。そんな曲を、当時音楽的にもプライベートでもどん底を迎えていたソウルのパイオニア、マーヴィンが作ったというだけでも胸が高鳴る。彼をどん底から救うことが出来たのが唯一「セクシャルな癒し」だったと、共作者としてクレジットされたジャーナリストのデビッド・リッツが指摘したことでこの曲は生まれた。やはり真の救いは本能にありってことなんだな。この曲が発売された1982年の暮は、プリンスがいよいよ来年に迫った世紀末を危惧しつつグルーヴで乗り切ろうとポジティヴに歌った「1999」をリリース。マイケル・ジャクソンはあの怪物「スリラー」をリリースする傍ら、恩人であるダイアナ・ロスに「私は筋肉隆々の男が欲しいの」という妙な歌を提供し、コモドアーズを脱退したライオネル・リッチーが初のソロ・アルバムで全米チャートを急上昇し、湯川れい子さんを呆れさせる(彼女はプリンスやマイケルを絶賛する一方で、ロック指向を打ち出したレイ・パーカーJr.やもろ中庸なライオネルを非難しまくっていた)という、良くも悪くもブラック・ミュージックにおける「転機」の時代だった。ジェームズ・ブラウンやスライ、Pファンクといった真の怪物は沈黙を守っていたが、マーヴィンの蒔いたセクシャルな種がしばらくしてソウル本来の隈雑さとメッセージ性を浮かび上がらせた時(もちろんプリ様の活躍が物を言ったのは当然)、彼等に再びスポットが当ったのだった。皮肉にもマーヴィン自身は、自ら父に贈った銃のせいで命を奪われるという悲しい結末になってしまったが。そして打ち込みを使用したメロウ・ファンク路線は、Pファンクの遺産と結合してテディ・ライリーらのニュー・ジャック・スウィングへと道を開く一方、ライオネルの無味乾燥な歌ものの傍流にフレディ・ジャクソンとかグレゴリー・アボットなんかを産み落とす。その女性版と言えるのが、他でもないホイットニー・ヒューストン。さらに白人版の亜流として誕生したのが、マライア・キャリーである。現在日本で活躍する「ソウル」シンガーの多くは、アレサやゴスペルへの憧れをいくら口にしても、いずれはマライアとホイットニーの呪縛から逃れられないし、彼女達のサウンドを担当するスタッフにしたってニュー・ジャックとヒップホップをいくら消化しても、ソウルの核心にまで迫る事はできないでいる。Misiaの殺人的高音は、カラオケ肝試しの材料に決して甘んじないものだとは思うけど。本人がもっとオープンにメディアを挑発しないといけないんだよね。マーヴィンの伸びやかな歌声を聴きながら、こうして「閉ざされた」和製ソウル界の悲しみを嘆く丸芽。そういえば美濃さんのアルバムで取り上げられていた「つつみ込むように」は、いかにも表面的なソウル色がはがされてむき出しにされたような好解釈だった。まだその気になれないでいるとか言って、結局かなり書いてしまいました。
ところでかねてから注目していた宇多田ヒカルが9日遂にシングル「Automatic」で正式デビュー、パブリシティ戦略も功を奏してかなり売れてるらしいです。もちろん親の事についてはそんなにリークされていないんだけど、関係あっかという感じで。若いんだから、まだまだ化けられるはず。自分で全てをコントロールする技量さえ付いてくると思う。周囲の喧騒に負けず、頑張ってほしいです。
| Ringo Starr "Vertical Man" Mercury PHCR-1640 |
| Tiny Tim "God Bless Tiny Tim" Reprise WPCR-1994 |
| V.A. "Ya Gotta Have Moxie!:The Best of Boulders" Moxie/AIP [US] 1059 |
| Curt Boetcher "There's An Innocent Face" Elektra AMCY-2830 |
| Various 「フォーエヴァー・アンド・エヴァー〜永遠のアイドル」 Continental TECN-30413~14 |
| 朱里エイコ 「イエ・イエ」 King/P-Vine PCD-1481 |
| Various "The Look Of Love-The Burt Bacharach Collection" Rhino [US] R2-75339 |
| Billy Nicholls "Would You Believe" Imediate TECW-20800 |
| Marvin Gaye "Midnight Love/The Sexual Healing Sessions" SME SRCS-8817~8 |
| Various 「赤塚不二夫ソングブック」 VAP VPCD-81265 |